院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


白秋いまだ遠く


 仕事を終え、小さな車に身を縮めるようにして乗り込む。空は晴れていて、風が少しある。久しぶりに屋根を開けると一番星。年甲斐もなくオープンカーに乗っていると、遅れてきた季節に、少年の様に心弾むこともある。秋と言えば、高く晴れ渡った青空、もみじ葉の彩り。とかく鮮やかなイメージがある。丘の頂を越えると、眼下には東シナ海に沈む夕日。先日、母が話題にした「秋の三夕」を思い出す。前述のイメージとは裏腹に、『新古今和歌集』、巻四、秋上に納められるこの三つの秀歌はモノクロームに近い秋である。中国五行説の青春、朱夏、白秋、玄冬になぞらえた人生の移り変わりと一日の終わりの夕暮れは、寂しさや、侘びしさを冷徹に見つめる歌人の孤独を映し出す。中でも寂蓮法師の「さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮」という歌が好きだ。他の二首、西行(心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮)や定家(見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮)の歌と比較され、表層的で深みがないとも批評される歌ではあるが、私はそうは思わない。様々な懊悩と、いくつもの蹉跌、有り余る感情を封じ込めて、さらりと「自分の、このさびしさは、どこがどうだと言うこともないのだが」と詠える境地は、やはり凡人の達する域ではない。「秋の三夕」の起源は定かではないが、室町以降と言われている。先達の賞翫の確かさ。驥尾に付して言わせてもらえば、暮れなずむ一日、未だ多くの未練と煩悩を残しながらの人生の秋日を、鮮烈に歌い上げた「秋の三夕」は、世代を超え、時代を越えて語り継がれるべき名歌と言えるだろう。
 ガレージに車を止め、玄関への階段を上ったところで振り返る。夕日はすでに沈み、明度を落としたあかね色の空と、それを映した海に挟まれるように、渡嘉敷島の島影が黒く漂っている。屋根のない車で感じていた少年の頃の高揚感が、ただ何とはない寂しさに侵蝕されていく。「ただいまー」、玄関を開ける。「おかえりなさーい」、妻と娘の甲高い声が聞こえる。駆け寄る愛犬を抱き上げてリビングに入ると明るい笑顔と笑顔が私を迎えた。高揚感が再び満ちてくる。白秋いまだ遠く、朱夏のただ中にいる。寂しさに浸る贅沢はまだまだ先のことである。



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